玉砕

 
 静岡県慰霊碑
 
 ブラウエンからダガミに行く幹道の西側
 
 
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泉師団(第26師団)傘下の大隊は191110(第4次多号作戦)
オルモックに上陸後
  即 乾坤一擲(けんこんいってき)
運命をかけて大勝負をすること)
 
のブラウエン飛行場群奪還作戦の
先遣隊としての使命を帯び参戦進撃(和号作戦)
ブラウエン飛行場までは直線距離で20数キロ程度であるが
  その間にはレイテ島を南北に縦断する脊梁山脈があり
筆舌に尽くし難い峻嶮な(しゅんけん: 山などの高く険しいこと)
 
 崖 岩登り 谷下りを
強いられながらも作戦遂行のため
体力を消耗し死力を尽くし11月末
  には所定の位置(ロビ山南 山麓)に進出した。

 
 
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後続の泉師団主力は西海岸ダムランの戦闘で
戦力を消耗しながらも本作戦の為に
  戦線を離脱し転戦を果たしたのであるが
脊梁山脈の山越えに日時を要し結局
  本作戦の斬り込み実施日の127日には到着できず
突入には参戦できなかった。
  やむを得ず第3大隊は単独で部隊から選抜した
斬り込み隊4人~5人単位100組を
  連日派遣、初期の目的である飛行場の
一角を占拠の大殊勲を打ち立てた。

  しかし この激戦で多くの将兵
この地南ブラウエン飛行場(現地名バユグ)で戦死
 855名玉砕した。

 
 
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その後 第3大隊は日本軍の
兵站基地(戦闘部隊の後方にあって
人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり
また、後方連絡線の確保にあたる活動機能)
 
 西海岸オルモックに米軍が逆上陸に伴い
  急遽この作戦も半ばで放棄中止となり
反転に転じ再度和号作戦の
殿軍後衛突兵
しんがりの部隊。大部隊の最後尾で、敵襲に備える部隊)
 
としての使命を受け
追撃の米軍と死闘を重ねながら
脊梁山脈西方山麓を転進した

  この道は泉師団主力が1ケ月前に転進したジャングル道で
多くの将兵の戦死遺棄遺体があり
道標には事欠かさず
 
後には白骨街道と呼ばれている。
合掌!